『白河夜船』 吉本ばなな 文庫本 新潮文庫
いつから私はひとりでいるとき、こんなに眠るようになったのだろうー。
植物状態の妻を持つ恋人との恋愛を続けるなかで、最愛の親友しおりが死んだ。眠りはどんどん深く長くなり、うめられない淋しさが身にせまる。ぬけられない息苦しさを「夜」に投影し、生きて愛することのせつなさを、その歓びを描いた表題作「白河夜船」の他「夜と夜の旅人」「ある体験」の”眠り三部作”。
(背表紙あらすじより)
Contents
レビューの前に
単行本の初版を買って読んだはず
この小説は、1989年に発売されました。1989年、つまり昭和で言えば64年だし、平成元年でもあります。そうまだ私が学生だったころ。この前年に『キッチン』が刊行されて超話題をかっさらっていった吉本ばなな氏。『キッチン』も読んだし、この『白河夜船』も読んだ。それも初版で。
それなのに、ストーリーの記憶がさっぱりと残っていなかった。このお話しだけでなく『キッチン』もそうだ。今回改めて読み始めてみて記憶が戻るかと思ったが、さっぱり戻ってきませんでした。昔読んだ本だから忘れた?そんなことはない。32年ほど前の記憶を遡ってみて、この2年前の1987年の『ノルウェーの森』(唯一読んだ村上春樹の本)も、この翌年1990年に発表された鷺沢萠の『スタイリッシュキッズ』もほぼ頭に残っているから。
そう、つまりあの当時の私には「合わなかった」にすぎない。『キッチン』の後の、『うたかた/サンクチュアリ』も『哀しい予感』も『TUGUMI』も読んだという記憶だけが残されている。そして『白河夜船』以降の吉本ばなな氏を私は知らないままでした。
改めて、文庫本を購入した理由
先月読み終えた、とあるエッセイ本。その中に『吉本ばなな』というワードが出てきました。中身の記憶は残っていないくせに、なぜか『白河夜船』という本のタイトルはその時に連想されて出てきました。そう、『キッチン』でもなく、『白河夜船』。なんでだろうね?
ところで、「正和堂書店」という本屋さんが大阪にあります。
私の家から、徒歩圏でも自転車圏でもないエリアにあるのですが、一度訪ねてみたいとかねがね思っていました。その理由は、このお店のオリジナルブックカバーが素敵だからなのです。先月ようやくその機会が訪れて、文庫本を探しながら店内をうろうろしていたら、書店のおすすめ棚の中に『白河夜船』が残り1冊となって置かれていました。
うん、これってまさしく「出会い」だよね。と勝手に思い買っただけです(笑)
白河夜船
「冬の匂いがした」
そう、このお話しは冬のお話だ。と勝手に感じています。
夏のひかりが描かれていたり、ラストシーンは花火だったりするけれど、それでも一貫して根底に「冬」を意識せざるを得なかった。
読み始めると素直に映像が頭の中に浮かんでくる。これも軽い衝撃だった。映像、それも透明感のあるレンズを通したような映像が浮かんでくるのだ。もし僕が二十歳前後に写真をやっていたら、この小説の記憶が消えてしまうことなんてなかったかもしれない。そう思わせるほどに丹念に紡がれた言葉によって浮かぶ画には常に冬のひかりがさしていた。夏の刺すような痛みを伴うひかりの正反対、優しく身体を暖めてくれるゆるいひかりがこの物語には一貫して描かれていた。
この物語に恋をしたかもしれない
どこかに書いた記憶があるけれど、僕の本の読みすすめ方は雑だ。
どうしても字面を追ってしまう。急いでしまう。
ところが、この本はそれを許してくれない。止まってしまうのだ。それは読みづらいとか、表現が嫌いとかそういう種類なんかじゃなくて、思わずある数行を往復してしまい、その余韻を感じたくて本から目を逸らす。
線を引きたくなる
付箋を貼りたくなる
本を汚すのが嫌いだから実際にはしないけれど、なかなかに読みすすめにくいと感じた。しかしそれは決して不快なんじゃなくて、むしろ好ましいものだった。近頃は自宅じゃなくて、喫茶店やドーナツショップでの読書時間がなにより幸せなのだけど、そういう時は筆記用具がないので、iPhoneのメモアプリに気に入った個所のページ数と行数やちょっとした感想を書き込むのだ。その行為がたまらなく愛おしいのだが、これは「恋」なんじゃないのだろうか。うん、おそらく僕はすっかり恋をしてしまったのだろう。数を読むのが正義とか早く読めるのが良いとか、そんな馬鹿なことを考えていた若い頃には道理で「合わなかった」はずだわ。
それで、たとえばそのメモには
”16ページ9~12行目 何度も読み返す”とあった。
ただひとつ、ずっとわかっていることは、この恋が淋しさに支えられているということだけだ。この光るように孤独な闇の中に二人でひっそりいることの、じんとしびれるような心地から立ち上がれずにいるのだ。
そこが、夜の果てだ。
もちろんここだけを切り取ってみてもさっぱり理解できやしないだろう。これは主人公の寺子が恋人(世間的には不倫の関係だけど)といると、時折「夜の果て」が見えてしまう時がある、とのくだりのラストがこの表現だ。二人の関係性を「夜の果て」と表現しちゃう凄さや闇に光があたることで黒い闇じゃなくて「蒼い」闇の中の二人がイメージされてその美しさが関係性の汚れを感じさせない。
また、”72ページ6行目”ともある。
でもあの瞳…悲しみをいっぱいにたたえた、とても遠いあの瞳を、どうしても忘れることができなかった
二人が出会う前から男の妻は事故が原因で植物状態のまま病院で眠り続けているし、寺子の無二の親友は自殺してその喪失感からなかなか抜け出せないでいるし、物語のベースには明るい要素はあまりない。どちらかというと淡々とストーリーは紡がれている印象なのだが、そのうちまるで「夜の果て」に飲み込まれてしまうように寺子は眠りに支配されていく。それまでは物音に左右されないほど深い眠りの最中でも「恋人からの電話」だけは反応できていたのに、それすらできなくなるほどに眠りに支配されてしまう。そしていつしか、夕方と朝方の違いに気づかないぐらい眠ってしまった。尋常でないほどの睡眠をとっているにもかかわらず、まだまだ眠ってしまいそうになる自分が怖くなりながらも、眠りに飲み込まれてしまってもいいかもしれないとまで思った夜明け前の公園で寺子はひとりの少女と出会う。その後たまたま知人から誘われて1週間ほどのアルバイトをすることになったのだが、普段は家でじっと恋人からの連絡を待つだけ(まるで愛人契約のようなのだが)だったから規則正しい生活が苦痛で仕方がなかった。それでもやり通したのは、公園で出会った全く知らない他人に過ぎない少女の、実際には夢の中の出来事だったのかもしれないけれど、眠りに支配されてしまった寺子が危険だと言い、なんでもいいから手足を動かして仕事中に眠らなくてすむような仕事をしなさいと忠告してきたときの瞳が忘れられなかったから。もしかしたらその少女は、眠り続けている恋人の妻の姿かもしれないとも寺子は思ったりするのだけれど。仮にそうだとしても不思議ではない「流れ」が物語にはあって、その流れで生み出された感情がこの一行にあるような気がする。
ストーリーを追わせるようなお話しを好む傾向が強くて、いわゆる(軽いのを含めた)ミステリーやエンタメ系の物を読むことが多いし、純文学と言われる物には距離を置こうとしてきた。
しかし今回30年ぶりに手にしたこの本は、じっくりと取り組む本もたまにはいいもんだろうと語りかけてきた。そしてそれに明確に否と言えない僕がいる。この作品を純文学にジャンル分けして正しいかどうかはわからないけれど。
それで、これまでなら調子に乗って過去読んできた『キッチン』とか、吉本ばなな氏の未読が大部分の作品群に挑んでいきそうなんだけれど、こればっかりはすこしわからない。それだけこの「白河夜船」が強烈すぎた証でしょう。
他2編について
眠り三部作と言われているらしいですが、それはさておき『夜と夜の旅人』も素敵な映像が流れる。
このお話しも冬なんですよね。
兄といとこの毬絵の恋、それは兄の突然の死によって終わってしまうのだけれど、その絶望から抜け出せることができない毬絵と主人公、芝美の物語。どんよりと暗い展開にしようとすればできそうなテーマなんですが、そうならないのは、この作品も映像が浮かんでくるんだけど、その映像が美しいから。なんか抽象的な表現にならざるを得ないのは、少しでも具体的なことを書いちゃうとネタバレになってしまいそうで。それだけストーリーは複雑じゃないということだけど、飽きることはありません。むしろシンプルだけにこれを書けちゃうところが吉本ばななの凄みなんでしょうね。
眠りが絡む3編をたまたまなのか、売るための戦略なのかわからないけれど、眠り三部作として1冊の本になっていますが、三部作と呼ぶべきほどの関連性はまったくありません。3つとも全く毛色の違う話だし、別々の作品として楽しむことができます。読む順番も自由!(笑)
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