現像について、いま感じていること

先日三重県立美術館でサルバドール・ダリの絵を見てきたんだけど、ちょっとした小旅行になる予定だったの

で、カメラはGRⅢ以外にα7sも持って出かけた。

GRと旅 ShortTrip to 三重
3月20日(土曜日) 三重県立美術館に、ダリの絵を観に行った。 そう、メインの目的は「ダリの絵」だけだ。 だけどせっかくだから、ついでに何かを見に行こうではないか。 何かをしに行こうではないか。 僕の場合、何かをしに行こうは、写真...

 

 

今所有している、GRやX100Sで撮ったものはできるだけ、カメラ撮って出しで完結させたいと思っている。一応GRは+RAWで撮ってるけれど、X100SはJpegオンリーで撮影している。X100Sはフィルムシミュレーションで撮りたいから買ったようなものだから当然と言えば当然で。

 

 

 

さて僕の現像スタイルは、ほぼほぼlightroomのみで完結させている。Adobeのフォトプランを契約しているのでPhotoshopを使えるし、もちろんMacにもiPadにもアプリを入れている。だけどそれらはほとんど未使用に近い。その理由としては、Photoshopに敷居の高さを感じていることもあるけれど、lightroomでまあ十分だと感じているからだ。

 

 

 

去年ぐらいまでは『現像してこそ!』と思っていたけれど、近頃はログっぽい写真ばかり撮っていることもあってか、『撮って出しでいいじゃん』と思う気持ちが強くなっていて、なかなか現像に向き合う気になれない。一生懸命現像しても、撮って出しのほうがよかったという悲しい現実があったりもするしね(笑)

 

 

 

でもまあなんとなく現像を避けようとしている一番の理由は、「自分のスタイル(色)」が確立できないことに焦燥感を覚えているからだろうなあ。

 

 

 

 

「自分らしい写真」

「自分らしい色」

「自分の好きな写真」

「自分の好きな色」

 

一昨年あたりから自分の引き出しを増やすために「絵」を見に行くことを再開した。20代のころはよく足を運んでいたんだけど。

そのなかで去年確か神戸で見たゴッホ。

その時に『ゴッホも初めからゴッホじゃなかったんだ』と感じた。

ゴッホ=ひまわり、そう思ってしまう。だけどあのタッチに至るまでの彼の作品はまさしく右往左往しているように見える。ゴッホですら迷うんだから僕のような凡人が迷うのは当たり前で、それこそちょっとやそっとで確立できるわけないじゃんと気づかされた。

でもね、気づいても焦せんねん(苦笑)

 

 

 

写真を仕事にしていない僕が撮る理由は、単純にそれが好きだから。

あっと思った一瞬や風景、光景を切り取りたいから撮っている。

だけどイメージ通りの絵はなかなか出てこない。

はじめは現像技術の問題だと思っていた。

でも最近は、技術よりもイメージが貧困なのが原因だと思うようになってきた。つまり完成形のイメージが固まらないままに写真を撮ってるから、表現できないんだよね。だからそんな写真をいくら現像しても全く面白くない。それがだんだん現像をしなくなってきた理由だと今気づいた。いやあたまにはぐだぐた吐き出すことも必要だわ(笑)

 

 

 

あ、そうそう、ダリの話です。

 

これまで一度もダリの絵を見に行ったこともなかったし、正直見たいと思ったこともなかった。それほどまでにノーマークだった彼の絵をなぜ見に行こうと思ったんだろう。

今になってみれば、おそらく僕は「呼ばれた」んだと思う。

その日、展示された絵を見ていく中で気づいたことがあって、それは「影」が描かれていることだった。これまでそこそこ見てきた絵の中にももちろん影はあったんだろうけど、ダリほど明確に「影」を意識させられた記憶はない。影があるということは、つまりそこに光があるということだ。普通は光を描くところを、影を描くことで光を意識させる。遠近法なんかもわかりやすく使われていて、なんだか写真の勉強をさせてもらっているような錯覚に落ちてしまうほどだった。さきほど「呼ばれた」と書いた理由はこういうことです。

 

◆camera: SONY α7s

◆Lens: sigma45mm FE85mmF1.8

 

 

今回の美術展のタイトルは、「ショック・オブ・ダリ サルバドール・ダリと日本の前衛」だったのだが、全くの予備知識がないままに臨んだ結果タイトル通り軽くノックダウンさせられた気分になってしまい、誠に申し訳ないのだが、ダリの絵以外を目に入れるのが嫌で日本の前衛として展示されていた絵を邪魔に感じてしまった。そしてその挙句買い求めたのがこの本でした。

 

 

 

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